はじめに

 はじめまして。
有益無益、有象無象、夜空に輝く星々の如く、インターネットにあまねく散らばるサイトの中から、とりわけ役立たずな場所へようこそ。

 こんな辺境まで来てくれてありがとう。そこでなんだけど、出口はあっちだ。きみに帰る場所があるうちに、ここを去ったほうがいい。

 ここにはきみの求めるものは何もない。インターネットの墓場、いわば肥溜めだ。無益なことばかりがつらつらと連なり、身になることなんか何一つとてここにはないんだ。

 今まで知り得た知識や価値観がくだらないことで上書きされて、きみはきっと後悔するだろう。だから、手遅れになる前にここを去ることをぼくは進言するよ。

 でももし、きみが暇を持て余し過ぎたゆえに、無味無臭の禁断の果実に手を伸ばす阿呆のアダム――あるいはイヴ――たらんとするならば、せいぜい腹を壊さぬように用心して進むことだ。

 ぼやけた存在によってここに記され、紡がれた言葉が、きみにとっての祈り、あるいは呪いとならんことを。

Nothing Else #2

 人生ってなんだろうな。そう考えたことはあるだろうか? いつに間にか生まれてきて、なにを残すわけでもなく死んでいく。

 なんのために生まれて、なにをして生きるのか、すごく大切なことのはずなのに、その答えを知らぬまま、殆どの人は死んでいく。

「生まれたからにはやるだけやって死ぬだけだ」なんて吹っ切れた考えに至れれば楽なんだろうけど、なかなかそうもいかないわけでさ。

「ぼくがなにを持って生まれたのか」「俺はなにをする為に生まれたのか」「わたしはなにを遺すために生まれたのか」いつもいつもそうなんだけどさ、考えたってどうしようもないことばかり考えてしまうんだよな。

 ぼくは今の人生に満足していない。かといって不満かと言われれば、別にそうでもないんだよな。ただ、“大事な何か”が欠けている気がするんだ。それは使命ってやつかもしれないし、意味ってやつかもしれない。生きていくための核、根っことでも言おうか。そういうようなものが足りない気がするんだ。

 でもそれはただの我儘なだけの気もするんだ。思い描いた理想から乖離した現状を受け入れて、どこかで折り合いをつけて生きてる自分に対して、無意識に『違う、そうじゃない。こんなはずじゃなかったんだ』って叫んでいて、それが“抜け落ちた大事ななにか”を錯覚させているのかもしれない。

 きみはどうだい? 自分の人生に満足しているかい? これは紛れもない、わたしだけの人生で、わたしにしかできないことなんだ。なんて、口に出してみて違和感を感じないか?  感じないならきみはそのままその道を突き進めばいいし、違和感を覚えたならぼくと同じ病を患ってしまっていることだろう。

 こんなこと言ったら誰かに怒られそうだけど、 実際、自分の人生に満足してる奴らなんてごく少数派だろう。「こんなはずじゃなかった」とは行かないまでも、「あれをやっておくべきだった」「もっとああすればよかった」って後悔しながら永遠の眠りにつく人のほうが多いんじゃないかな。

 大団円の大往生でエンドロールに入れるならそれが最高なんだろうけど、分岐条件が何一つわかっていないし、やり直しもきかないこのゲームでトゥルーエンドに辿り着くのは難しい。どれだけ努力を重ねて望むものを全て手に入れたとして、どっかで「本当に欲しいのはこんなものじゃなかった」なんて考えてしまったらもうそこまでだ。

 きっと、遅かれ早かれ、ぼくらは後悔することになるんだろう。というか、既に後悔を重ねて今ぼくらはここに立っている。つまり、その積み重ねでぼくらは今生きているんだ。後悔なくして今のぼくらは存在し得ない、ってことだな。それらは無駄なことではなかったんだよ、きっとさ。

 大体ああだのこうだのいって後悔して、あり得たかもしれない正解を選んだ先の人生を想像したってさ、それがそのとき正解だったか、なんてわからないだろ? このゲームに攻略本はないんだ。だから分岐点での正しい選択、なんてわからないんだ。それに分岐点は一個だけってわけじゃないからね。きみの過去にあった分岐点、その全てで正解し続けるなんて、恐らくとんでもない難易度だ。仮にそれが叶ったとしても、それ、全くの別人じゃないか?

 つまりさ、今まで生きてきて間違えたことなんて数えきれないほどあるけど、その間違いがあったからこそ今ぼくらはここにいるんだ。だから過去の自分のした選択を咎めたり、あり得たかもしれない自分を想像して悩むのも程々にしよう。

 なんだかんだここまで生きてきたんだから、この先も暫く生き続けるんだ。その過程で間違いなんてたくさん犯すさ。でもその間違いを経た先にいるのがぼくらなんだ。ただ、今際の際に「生まれてきたことを後悔している」なんて悲しいことは言いたくないな。その為にどうすればいいかって?  これから考えるんだ。たくさんの後悔を重ねてね。

 考えたってどうしようもないことをひたすらに引き延ばして、ノンストップの一筆書きで綴るのが“これ”の決め事なので、特に結論もオチもないんだ。というか、思いつかなかった。

1700文字/35分

 

Nothing Else #1

 色々思いつくことはあるし、一応続けるには続けてるんだけどさ、整合性と質を保ちつつ文を綴るってのはなかなか難しいもんさ。思いついたことを形にするのにも才能が要るんだ。どれだけ素敵な物語を頭で作れても、それを形にできなきゃ人の心は穿てない。それはただの自己満足だ。――もちろんそれは悪いことではない。現にぼくだってこうして誰に宛てるわけでもなく、見せるわけでもないものをここに綴っている。それは紛れもなく自己満足だ。それ以外の何者でもない。

 だから今回は質も整合性も無視して、思いつくままにキーボードを打っている。たまにはそういうのも良いと思うんだ。こだわりを持ちすぎて、辞めてしまって腐ってしまってはなんの意味もない。「俺はこんなとこで終わりたくない」って気持ちがあるならさ、どんな拙いものであれ、作り続けて、“辞めてしまう”ってことを避けるべきだと思う。だから、身になるものも、意味のあるものも何一つないここで、さらに中身のないものが“これ”だ。

 考えることは色々ある、思いつくこともたくさんある。でもそれは浮かんでは消えていく有象無象で、自分の気づかないうちに忘れてしまっているものの方が多い。いつでもプロットを書き残せるわけじゃないからね。夢日記はできる限りつけているけど、後から見返したらワケが分からないんだ。夢なんてフワフワしたものを書き記したとて、後からそれを再現するのは至難の業だ。そんなワケで、下書きのないままここまで書き進めたけど、やっぱり書くべきことは思いつかなかったよ。

 そうだな、最近漫画を読んだんだ。不死の人間の話で、何をされても蘇る生物の話だ。その中で「でもそいつらは死ぬ」って言われてるんだ。そいつらは体がバラバラになったとき、一番大きい肉片を元に再生するらしいんだ。つまり断頭して首から上を吹っ飛ばせば、体から頭が生えてきて蘇るってことだ。

 人間の本質は心にある。では心はどこにあるか、心臓か? 違う。人間は考える。どこで考えてるか、脳みそだよな。――ちなみに心臓にその人の意思が宿ってることを示すような話もあるにはある――断頭して新しい頭が作られる。その頭は今この瞬間まで考えて生きてきた頭とは違うものだ。同じ生物ではあるが、人間としてそいつは死ぬんだ。なかなかに哲学的な話だけど、その作品の中で大きなテーマとしては扱われてはなかったな。なんせこの話が出てすぐに粉砕機に突っ込んで手から再生するって荒業をやってのけてたからね。「死んだんだぞ?」といわれて「気にしないさ」なんてケロっとしてたよ。

 それでふと思ったんだけど、今まで生きてきたぼくが、まったく同一の存在であるって保証はないんだよな。実のところ人間は寝る度に死んでいて、何らかの仕組みで記憶とかも引き継がれて生き返っていたり、知らぬ内に宇宙人に殺されて、証拠隠滅のために機械で作り変えられていたり、どっかに水槽に入ってるクローンがたくさんいたり。フィクションにばっか触れて生きてると、こういう突拍子のない考えには事欠かないもんさ。
 
 そんなこと考えたってどうにもなんないし、“自分という存在”なんてぼくにとってさして重要なもんじゃない。明日も歩く足、何かをする手、考える頭、それがあれば十分さ。でもまあ、朝起きたらもうちょっとハンサムになっててもいいかな。

 ここまで通しで書くのに、二十五分かかったよ。悪くはないんじゃないかな?

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faster than fastest #2

 プレイリスト

 おおかた、ぼくらは最初の一歩を躊躇する。しかし踏み出してしまえば、案外平気なものだ。人間には、慣れという機構がある。とても便利な機能だ。

 最初の一を作ってしまえば、続きを作るうちにぼくらはそれに適応することができる。二を三に、六を七に。やがてはなんとも思わなくなるだろう。八十も九十も、大した違いではなくなるだろう。

 だが厄介なのは、ぼくらは何にでも慣れて適応できるということだ。慣れていくうちに、その対象に対しての抵抗は薄れていく。それは良くも悪くも、だ。

 出来心で盗んだ菓子パンは、やがては拾った菓子パンくらいにはなってしまうだろう。 それを咎めるものが何もなければ、きっと。

 話を戻そう。引鉄を引いたぼくらは、撃鉄が雷管を叩き、放たれた弾丸によって、効率的にあらゆるエンターテイメントを鑑賞できるようになった。

 だれかがゲームをしている。あらかじめダウンロード版を購入しておいた彼は、そのゲームの発売を心待ちにしていたようで、デスクにはケミカルな色合いの炭酸飲料がグラスに注がれている。ディスプレイの脇に置かれた携帯には、同じゲームをプレイする動画投稿者の生放送が映し出されている。チャイムが鳴った。どうやら出前を頼んでいたようだ。

 だれかが携帯を眺めている。ケーブルレスのイヤホンで耳を塞ぐ彼女は音楽を聴いているようだ。自動生成されたプレイリストを聴いているらしいが、シークバーやスキップボタンを触ってばかりいる。イントロや間奏が長い曲もギターソロも彼女の好みではないらしい。手が止まった。歌い出しから始まり、サビの繰り返しも2回だけの短い曲だ。

 だれかがアニメーションを見ている。彼はたくさんのそれを見ることを生きがいとしているようで、動画は1.5倍速での再生に設定されている。彼が見たい量に対して、彼の時間は不足しているようだ。携帯には二次元の美少女が何やらゲームをしている様子が映し出されている。アニメーションが映し出されているものとは別のモニターには、snsが開かれている。どうやら他人と感想を共有しているようだ。彼の背後には即席ものの食品や酒の空き缶が散らかっている。

 だれかが携帯を眺めている。友人と二人並び、無言で彼女達は携帯を睨む。眺めているのは60秒未満の短い動画だ。様々な分野の、様々な人達が作った動画のようだが、スキップボタンがよく押される。友人が話しかけながら動画を見せる。彼女たちと同じ年頃の女性が音楽に合わせて踊っている。どうやら自分達も同じことをやってみるようだ。ダンスは簡単で、そつなく踊りきった彼女達は慣れた手つきで動画を投稿する。彼女達はその曲を作った人も、歌詞の意味も知らないし、聴き込むこともないだろう。カメラロールには、同じような動画が埋もれている。

 余りあるコンテンツを消費する中で、ぼくらは“鑑賞”に対して慣れ過ぎてしまった。結果としてインスタントにそれを消費し続ける。作り手の意図したもの、伝えたかったものは軽視されるようになり、よりインスタントに消費できるものが好まれるようになった。

 価値観や常識なんてものは時代によって移ろい、変化し続ける。べつに滅ぼすべき大悪、ってわけではないと思う。どんなものも、美点と汚点、両方を併せ持っている。それとどう折り合いをつけるか、どう付き合っていくのが大事なんだとぼくは思う。

 かくいうぼくも、実のところ同じ穴のムジナだ。ながら見(二窓)も倍速もスキップもする。何かで手を動かしながら何かを見るし、動画投稿サイトにあふれた動画は、正直等速で見るには冗長過ぎると感じる。イントロが好みじゃなくても、サビはどうなっているのか気になる。便利なものは、とことん利用するべきだ。

 ただ、忘れてはいけないのは、“それはどこかの誰かによってつくられたもの”であるということだ。場合によっては何十人、何百人という人が関わっている。効率的で便利なものに依存しすぎて、作り手が伝えたかったもの、見てほしかったものを全て無碍にしてはいけない。

 真剣に向き合うべきだと感じたもの、芸術的な側面が強い作品は通しで鑑賞する。空白や間も含めて、一つの作品として成り立っているそれを、全て鑑賞したうえで、自分の感想を持つ。

 効率的な方法で摂取した作品も、作り手への応援や賛辞は惜しまない。誰でも発信できるということは、その分埋もれやすくなることも意味する。誰からの感想もないのに、創作物を作り続けるのは難しい。あなたの作品を見ている人がいる、ということは伝えなければならない。もちろん自分が特に気に入ったものは、できる限り通しでも鑑賞する。

 コンテンツの海に生きるぼくらは、“沈黙の加害者”になってはならない。どんな形でそれを享受するかは個人の自由だ。でも、リスペクトの心を忘れてはいけない。良いと思ったものに対して、ディスリスペクトであることはナンセンスだ。

 ぼくらは今日も明日も創作物の消費に事欠かない。果たしてそれらを、ぼくらは胸を張って好きだと言えるだろうか?


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 せめて最初の一回だけは、彼女の右手に触れてはいけない。

faster than fastest #1

 タイプライタが作られて、ぼくらは一本のペンから十本の指を使って文字を書けるようになった。

 コンピュータが発明されて、ぼくらは複雑な計算に頭を使って時間を掛ける必要はなくなった。

 インターネットができて、ぼくらは世界中のあれこれと瞬時に繋がれるようになった。

 ――人類は二千年でここまで進歩した。次の二千年はどんなものになるだろう?

 
 今回のプレイリスト

 新しい技術やモノが生まれる度に、ぼくらの生活は進歩していく。その恩恵は多岐にわたるけど、最初に挙げたやつらに代表されるように、“時間短縮”はとても大きいものじゃないかな。

 電車、車、ATM、洗濯機、食洗器、電子レンジ、電子メール、電話……今身の回りにあるものがなかったら代わりにどうすればいいか、って考えたらゾッとするよね。でも、狩猟採集社会でのんびり暮らすのも悪くはなさそうだね。農耕を始める前は争いもなく平和だったそうじゃないか。

 今や、ぼくらの生活は選択肢と利便性に溢れている。利便性については話した。次は選択肢だ。

 人類が豊かになって進歩していくのに伴って、ありとあらゆる選択肢が増えていく。仕事、食べ物、服、僕たちは何でも好きなものを選べる。――この世界は基本的には資本主義だ。当然それ相応の金が必要になるし、場合によっては地位も必要だ。でもそういう現実的でナンセンスな話はここではナシだ。あくまでもポリティカルに行こう――特に創作物、クリエイティブなコンテンツはあまねく星々の如く存在し、増え続ける一方だ。

 携帯一つあれば、ぼくらは自在に情報を発信できる。その媒体は問われない。ちょっとの知識と技術、想像力さえあればぼくらはやりたいことをやって、それを他人に公開できる。言わば「総クリエイター」時代だ。果たして「ひとつなぎの大秘宝」なるものは存在するだろうか?

 だれもが創作物を発信できるこの時代、ありとあらゆるコンテンツが無限に溢れている。そしてぼくらは容易にその波に溺れることができる。当然、質の良し悪しはある。ただ、言った通り“それら“は無限にある。大衆的に良いとされるものが、きみにとってもそうであるとは限らない。逆も然りだ。誰しもが世界一売れてるあのハンバーガーとあのコーラが一番の好物ってわけではないだろう? もちろん美味いのには変わりないし、何よりもそれを最も愛している、って人もたくさんいるだろうね。

 好きな作家の言葉を少し弄って引用しつつ話そう。『ぼくが望むものを作ってる人はいた。でもその人は、ぼくが望むやり方で作ってはくれなかった。ぼくが望むやり方で作っている人はいた。でもその人は、ぼくが望むものを作ってはいなかった』――今のこの世界なら、きみがそう望むのならば、玉石混淆のコンテンツの海から、きみが本当に求める“それ”を見つけることができる。

 しかし彼はこうも言っていた。『百個に一個しか存在しない“それ”をこの海から見つけ出すより、自分で作ったほうがよっぽど早いじゃないか』――今のこの時代なら、きみがそう臨むのならば、玉石混淆のコンテンツの海に、きみが本当に求めた“それ”を放つことができる。

 つまりぼくらは、ぼくらが求める“それ”を作ることも、見つけることもできる。とても良い時代になったと思うよ、うん。でも、進化に犠牲は付き物だ。時には痛みを伴う。良いことずくめ、ってわけにはいかないんだな。

 どれだけ生活が豊かになっても。あくまでも時間は有限だ。(敢えて誤用をするが)タイムイズマネー、金を積めば時間は買えるけど、それは先に述べたように技術によって何かにかかる時間を短縮した結果できるもので、永遠の命が手に入るわけではない。定められた人生の総和を増やすことはできない。アンチエイジングだの健康食品だのやったって、“そういうことをやったうえでの寿命”がこの世界に筋書きされてるだけで、好きなものを好きなだけ食べて、不規則な生活をしたって、長生きするシナリオが書かれてるやつはそうなるし、ぽっくり死ぬ設定ならすぐ逝くさ。――これ以上はやめておこう。この話も今度しよう。

 時間は限りある。しかしコンテンツに限りはない。その結果どうなったか? ぼくらは次から次へと溢れ出るコンテンツを追い続ける。飛ばし見、高速再生、ながら見、同時視聴。

 そう、“時間短縮”の引鉄を引いたのさ。

 続く


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 コンテンツ消費速度の高速化に伴い、イントロや間奏の長い曲は倦厭される中、この流れに逆らって、一発の矢に賭けるかのように長い間奏を活かした曲調で見事コンテスト一位に輝いた曲です。まさに「一矢報いる」是非”とばさず“に聴いてください。

 洒落です。面白いから見ろ。

Masquerade by Replicants

「おまえたち人間には信じられないものを私は見てきた。オリオン座の近くで燃える宇宙戦艦。タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム、そんな思い出も時間と共にやがて消える。雨の中の涙のように。死ぬ時が来た」
"I've seen things you people wouldn't bellieve. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain. Time to die." ――ブレードランナー(1982) *1 *2

今回のプレイリスト(premium加入者のみ)

 “レプリカント”とはブレードランナー(原作:アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)に登場する、人間そっくりのアンドロイドだ。彼らは過酷な環境から逃げ出し、人間社会に紛れ込んでいる。主人公デッカードはそんな脱走者を探し出す“ブレードランナー”として彼らを追跡する……というのがこの映画のあらすじで、サイバーパンクの先駆けとも言える本作は非常に高い評価を得ているのだけれど、その話はまた今度にしよう。

 “レプリカント”はいわば偽物だ。尤も、見た目も中身も高性能な彼らは、ブレードランナーですら判別に難儀する。ネタバレになるので詳細は伏せるけど、最初に引用したセリフはレプリカントが終盤に発したセリフで、Cビームスピーチ、なんて呼ばれている。死を悟った人間の紛い物が、自らの“人生”を回想するモノローグだ。レプリカントにも思い出があり、感情を持ち、果てには血を流す。本当に彼らは“偽物”なのだろうか?

 何をもって本物とするのか? それを決めるのはモノによってはとても難しいことなのだろう。でも人間は簡単だ。現状、この世界に人間の偽物は存在しない。仮に存在していたとしても、それをぼくたちは認識できないのだから、それは偽物ではない。誰も偽物だと判断できなければ、それは本物と同一だと思う。

 偽物の人間はいない、命題は真だ。でもぼくが話したいのはこういう真贋じゃないんだ。“きみの偽物”は確かにいない。けど、“偽りのきみ”はある。そうだろう?

 思うに、この世界は嘘と虚飾に塗れている。ぼくたちは息をするように嘘をつき、見栄を張る。自分をより良く見せるために虚飾で着飾り、化粧をする。そして“それ”を強制されているようにすら感じる。本当の自分をさらけ出したって、なかなかどうして評価はされないし、きっと誰も見ちゃくれないさ。

 事実、ぼくたちは「そいつはどこのどいつだよ」と笑っちゃうくらいに別の誰かを演じて職を得る。そんなことしなくていいのは一握りの人達だけで、凡人のぼくらは食い扶持を得るためにそうするしかないのさ。笑えるよな、ほんと。

 別に社会貢献に限った話じゃないさ。友達とも恋人とも、家族ともぼくらはきっと茶飯事の如く、嘘を酌み交わす。好かれるために、傷つけないために。それは当たり前に行われていることなんだ。

 ぼくはさ、この場で嘘や虚飾について糾弾したり、非難したりするつもりはないんだ。だってさ、『嘘をついたことない人間』なんて、いると思うか? 「わたしはうそをついたことがありません」なんて言うなら、それが嘘だろうね。――或いは、そいつが人間の偽物かもしれない――かくいうぼくだって、嘘をつくし見栄を張るさ。“何回”なんて、もう分からないね。きみもじゃないか?

 嘘をつくとき、ぼくは仮面を被る。その仮面は一つだけじゃない。仮面ごとに『ぼく』という存在は少しづつ異なった様相を示す。そしてその数は日に日に増えていく。仮面の上に仮面を重ねる。素顔は下へ下へ埋もれていく。本懐も本心も、底へ沈んでいく。誰かから見るぼくは、厚化粧で塗り固めた仮面、いわば“偽物”だ。彼らがぼくの本音を知る由はない。

 でもさ、誰かから見たぼくはさ、その仮面が本物なわけでさ。ぼくから見た誰かも、きっと仮面を被っているわけでさ。鏡に映る自分が“本物”なら、きっとその仮面が“本物”なわけでさ? …………正直に言おう。分からないんだ。何が本物で、何が偽物か。自分のことすら、もう分からないんだ。嘘をつき続けて、見栄を張り続けていたらさ、そんな簡単なことも分からなくなったんだ。

 なんだかさ、気でも触れそうなんだ。本物だの偽物だの、御託を並べてごちゃごちゃいっても、結局ぼくがなんなのか、答えなんか出やしないんだよ。思いっきり叫びたい気分だね。「なにが本物だ! なにが偽物だ! 薄皮一枚引ん剥けば皆おんなじ肉の塊じゃないか! 死なばもろとも、百年後には全部骨だ!」なんてさ。考えたって解決しないんだったら、叫んですっきりしたほうがマシかもね。

 案外さ、もしかしたら全部偽物かもしれない。実はこの世界はすごいシミュレーションゲームで、ぼくら全員NPCだったり。そしたら心すらも紛い物だ。――考えれば考えるほど、分からなくなるから、もうこの話は終わりにしよう。

 ただ最後に一つ。ぼくやきみの信じる“なにか”、どうかそれだけは、本物であってほしいと願う。ぼくにとっての“それ”は絶対に手に入らないものだ。だからこそ、それだけは本物であってほしい。きみにとっての“なにか”、それは果たして、本物だろうか?

 

 “ライ麦”のホールデンっぽい口調で何か書きたかっただけさ。殆どでっち上げで、ここに書いてあることに深い意味なんてないんだよ、きっと。

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